今日は、少し真面目で大事な話をします。
私に興味のない方も、短編小説でも読むつもりで、読んで頂けると嬉しい私のお話。
画像は、私の母方の祖父からのお手紙です。
白血病を発症して、なんとなく始まった、おじいちゃんとの文通。
おじいちゃんは86歳で、隣県に祖母が亡くなって、ずっと1人暮らしをしています。
山奥の散村のようなド田舎に、たった1人で19年。
いくつか病気をしてきたし、足腰は弱いし、耳はかなり遠いし、軽い痴呆はあるものの、毎日筋トレを頑張りながら、1人でしっかり生活しています。
隣県なので頻繁に様子を見に行くのは難しく、モニターを付けて、ママとママのお兄さんがスマホで見守りながら、変わりないか毎日チェックしているようです。
2020年、3月27日。
世間がコロナで初めて、外出自粛を始めた頃、ママと紹介された大学病院へ行きました。
19歳の頃から精神を病み、随分回復はしていたものの、ずっと通院していた地元の精神病院での定期健診で、異常な白血球値で引っかかり、検査を受けたその日に、院長自ら電話がありました。
当時私は1人暮らしをしていて、電話に気づかず、実家に連絡がいきました。
『自粛中だから車すいてるね~』
『がん?糖尿?何かね?』
と、私は実にのんきでした。
この時ママはすでに、慢性骨髄性白血病(CML)の疑いがあると、聞いていたみたいです。
気が気じゃなかったと思います。
病院へ到着後、紹介状を持って受付、軽く診察を受け、血液検査、少し待って再び診察。
「慢性骨髄性白血病ですね」
サラッと言われました。
あまりにサラッと言われ、聞き逃しそうになったところへ、ママが聞き返しました。
骨髄検査をしないと確定はできないけど、ほぼ確だと。
無意識にママの顔を見ましたが、私はヘラヘラしていました。
ママは、私がヘラヘラしているので、笑顔を返したいけど引きつった、苦笑いでした。
その後も淡々と話す私の主治医。
後で調べると、血液内科でのTOPの教授でした。
サラッと病名を告知したのも、その後も淡々と話すのも、理由があったと後に分かりますが、病名を聞いて私がまず思ったのは、
『あ、死ぬんだ』と、
『よりによって、何でその病気・・・?』
とひたすらママと、おじいちゃんを想いました。
なぜなら母方のおばあちゃんを、全く同じ病気で亡くしているからです。
我慢強かった祖母は、気づくのが遅すぎた為、急性骨髄性白血病で2年間、入院してキツイ闘病の末、亡くなってしまいました。
始めから急性型だったのか、気づくのが遅すぎた為、急性に移行期後だったのか、それは分かりません。
私が10代で遊び惚けてた頃、ママと祖父が懸命に通って、看病していたのを覚えています。
この病気に遺伝はありません。
だからこそ、
何でよりによっておばあちゃんと同じ病気なの
ママとおじいちゃんにまた同じ思いをさせてしまう
ママは自分の母親と娘をダブルで・・・
思い出したくない事を思い出させてしまう
100歩譲って死んでもいいけどその病気はやめて
この気持ちが頭をグルグルしました。
私は顔が強張るとヘラヘラします。
ヤバイ時ほどヘラヘラしてしまいます。
そのヘラヘラでした。
沢山あるがんの中で、どうしてそのがんなのか。
申し訳なくて申し訳なくて反応に困り、ヘラヘラしてしまったんだと思います。
そしてすぐに、薬で治療できる事、この10年強で医学が超進歩した事、入院は必要ない事、時間はかかるけど薬が効けば心配ない事、が分かり、淡々と話されていた理由が分かりました。
と同時に、ママがいちいち驚いていました。
病名を聞いた瞬間、きっとママはおばあちゃんの闘病を思い出したはずですから、驚くのは無理ないですし、1度は私の死がよぎり、ゾッとしたと思います。
医学の劇的な進歩に2人とも驚き、有難く思いましたが、正直悔しくもありました。
きっとママの方が。
たかが10年でこんなに変わるなんて。
どうしても100%では喜べませんでした。
それから骨髄穿刺をし、人生で1番の痛みに心も体もショックを受け、立てなくなり涙が止まらず、私はやっと事の重大さに気づきました。
それから腹をくくって闘病生活に入ったわけですが、やはりおじいちゃんがショックを受けている事を、ママから聞きました。
ものすごく胸が苦しく、ただただ申し訳なくて、この頃本当によく泣きました。
私からはどう報告していいか分からなかったので、家族への報告は全てママに任せました。
看護師をしている弟でさえ、科が違うので知らないようで、やはり聞いた時は「死ぬんだ」と思ったそうです。
おじいちゃんが最初に知った時、どう思っただろうと考えると。
胸が締め付けられ、言葉になりません。
補聴器を付けていても、かなり耳の遠いおじいちゃん。
電話ができないので、すぐに手紙がきました。
「正直頭が真っ白になったけど、親族一丸となって、必ず助けるから、どうか、どうか治療を耐え抜いて欲しい」
親族一丸って。笑
絶対助けてやる。という気持ちいっぱい、気合いっぱいの手紙内容に、嬉しさと、申し訳なさで、たまらなくなり、今でも涙が出ます。
「お金を工面することしかできないけど、とりあえず300万送金するから」
とも書いてあり、300万!?とりあえず!?
と慌ててママに電話して、おじいちゃんの気合が凄過ぎると、笑いながら止めたのを覚えています。
おばあちゃんの時大変だったんだろうな。
結果300万は止めましたが、援助させてくれと、いくらかママに渡ったようです。
総額の金額は知りません。
有難いことに変わりはないので、聞きもしてません。
改めて私から報告と、援助のお礼を兼ねておじいちゃんに手紙を書きました。
それから気づけば、文通のような事が始まり、2年3か月でおじいちゃんからのお手紙が溜まりました。
画像のお手紙は、私の宝物です。
これだけ私も書いた、ということです。
筆記体のようなお年寄りの字が、最初全く読めず、ママに代読してもらってましたが、今では自分で読めるようになりました。
お手紙ならではの温かさと、愛に溢れた言葉にいつも励まされ、離れていても十分支えてもらっています。
おじいちゃんの孫で良かったと思う反面、
『絶対死ねない』
と毎回気が引き締まります。
やっと乗り越えられたことを、私が全く同じ想いをさせるかもしれない。
治療1年目は、それが怖くて仕方ありませんでした。
ママとおじいちゃんに2度と、同じ想いなんてさせられない。
絶対私は生きなきゃいけない。
少なくとも2人が生きているうちは、私は先に逝けない。
絶対嫌だけど、私が2人を見送る側でないといけない。
祖母が亡くなった時、ママは一切涙を見せませんでした。
それが逆に心配だったのを覚えていて、精一杯頑張ってるのを側で見ていたから、ある意味楽にしてあげられて安堵しているのか、私の前で強く見せていただけなのか、分かりません。
いつか年月が経ったら聞いてみようと思っていたのに、二の舞があり得るかもしれなくなった今、聞けなくなってしまいました。
おばあちゃん、どれだけ辛かったか、今なら少しは分かってあげられるかもしれないけど、「まだ来るな」と突き放してほしい。
私頑張るから。頑張ってるから。
あなたの旦那様と、娘に全く同じ想いはさせないでください。
と祈る日々です。
私は、【死にたくない】じゃない。
【死ねない】
おばあちゃんが守ってくれているように感じます。
悲劇は絶対、防ぎます。
これが私が頑張っている1番の理由です。
こんな奇跡、いらなかったな。
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